大須観音、大光院、三輪神社、万松寺の順路で回られることをおすすめします。
大須のシンボル 大須観音

名古屋市営地下鉄鶴舞線の2番出口を出て徒歩1分、大須のシンボルで、日本三大観音の一つである大須観音の西門にたどり着きます(ちなみに日本三大観音の残り2つは東京の浅草観音、三重県の津観音)。
大須観音の正式名称は北野山真福宝生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)で、真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の別格本山です。
鎌倉幕府が滅びた元弘3(1333)年、能信上人(のうしんしょうにん)が岐阜県羽島市に開いた、北野天満宮の別当寺(神社を守護する寺)が発祥とされます。
本尊は大阪市の四天王寺から譲られた、空海上人(弘法大師)が彫ったとされる観世音菩薩(御開帳は50年に一度で、次は2030年)。
長良川と木曽川の間の中洲に位置し、「大きな中洲にある観音さん」ということで、「大洲観音」と呼ばれたことが、現在の名前の由来となっています。
能信上人は書物の書写や収集に努め、その蔵書は「古事記」3帖(現存最古の写本)など国宝4点を含む約1万5000巻におよび、「大須本」あるいは「真福寺本」として知られています。
寺院は慶長17(1612)年、清州越し(名古屋城の築城に際して行われた清州から名古屋への城下町の移転)に伴い、徳川家康の命で現在地に移されましたが、これは貴重な書物を水難から守るのが目的だったともいわれます。
明治25(1892)年の大須大火で本堂などを全焼し、再建されましたが、昭和20(1940)年の名古屋大空襲で再び焼失しました。
現在の鉄筋コンクリート像の本堂は昭和45(1970)年にようやく再建されたものです。
戦時に供出された鐘楼堂の梵鐘は昭和41(1966)年、女性のみの寄進によって鋳造され、「華精の鐘」(女人梵鐘)と呼ばれています。
大須観音では現在、一年を通じてさまざまな行事やイベントが行われるほか、毎月18日、28日の縁日には境内で骨董市が開かれ、大勢の参拝客でにぎわいます。
トイレの神様 大光院

大須観音から東北方向に歩いて3分ほどのところに、赤門通の由来となった朱門が目印の興国山大光院があります。
釈迦牟尼仏を本尊とする曹洞宗の寺院ですが、「烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)」をお祀りした明王殿が有名です。
一切のけがれや悪を清めるとされる烏瑟沙摩明王は、お手洗いの仏様、下(しも)の神様として知られ、心身の清浄やお通じの改善、女性特有の疾病の治癒、安産などに霊験あらたかとされます。
また、御札をお手洗いの入り口の上などにお祀りすると、功徳はさらに高まるそうです。
お参りの際には心の中で願い事を念じながら、「唵倶嚕駄那吽惹娑婆訶(おんくろだなうんじゃくそわか)」という御真言を3回唱えます。
大光院は慶長8(1603)年、徳川家康の四男、松平忠吉が、崇敬していた明嶺理察(みょうれいりさつ)和尚を招き、現在の清須市に創建した清善寺が発祥です。
忠吉が慶長12(1607)年に没すると、忠吉の法名をとって大光院と寺号を改め、さらに同15(1610)年の清洲越しで現在地に移転しました。
山号の「興国山」には「尾張の地に国を興そう」という忠吉の願いが込められています。
文化5(1808)年、烏瑟沙摩明王の別殿として明王殿が建立されると、多くの女性の参拝客を集めるようになり、毎月28日の縁日のにぎわいの様子は「尾張名所図会」などに描かれました。
明治8(1875年)に大光院の西に旭廓(あさひくるわ)という公認の遊郭ができると、娼妓たちがこぞって参拝に訪れたとか。
今も28日の縁日には、境内と周辺にさまざまな露店が立ち並び、夜遅くまでにぎわっています。
推し活の聖地 三輪神社

大光院から東へ5分ほど歩くと、「推し活の聖地」として近年人気を集める三輪神社に到着します。
もともとは縁結び、祈願成就の神社として知られていましたが、2021年ごろから「祈願すると『神席』(ライブなどで自分の好きな男性アイドルがよく見える席)が当たる」と評判になり、若い女性の参拝客でにぎわうようになりました。
神社の由緒は室町時代末期の元亀元(1570)年、現在の矢場町にあった小林城の城主、牧若狭守長清(まきわかさのかみながきぬ)が、生まれ故郷の三輪山(奈良県桜井市)の鎮守である大物主神(おおものぬしのかみ、大黒様)を祀ったことが始まりとされます。
明治時代には尾張藩十六代藩主、徳川義宣(よしのり)を合祀しています。
神社にはかつて、京都の三十三間堂(蓮華王院)を模した長廊がありました。
これは、三十三間堂で行われた通し矢(一昼夜に堂の南端から北端まで約120メートルを射通した矢の本数を競う競技)で、紀州藩に敗れた尾張藩が修練場として造ったものです。
その甲斐あって寛文9(1669)年、尾張藩士の星野勘左衛門が10,542本中8,000本の矢を射通し、天下一の称号を得ました。境内には尾張藩の矢場跡を示す記念碑が建っています(矢場町という地名の由来はここから)。
神社が若者の注目を集めるようになったのは、平成22(2010)年に女性宮司の平尾晴美さんが就任して以降です。
大黒様が登場する「因幡の白兎」にちなんで、福兎(幸せのなでうさぎ)の石像を設置するとともに、境内のあちこちにうさぎの人形を並べ、神社の堅苦しいイメージを一新しました。
また、カラフルな御朱印や、可愛いキャラクターを配した期間限定の御朱印を授与し、週末には長蛇の列ができるほどの盛況を博しています。
「推し活の聖地」として有名になったのは、参拝客が交流サイト(SNS)で発信したことがきっかけで、これは想定外の出来事だったようです。
戦国武将との縁 万松寺

三輪神社から南へ約3分、中古パソコンショップなどが並ぶ新天地通沿いに万松寺はあります。
天文9(1540)年、織田信長の父、織田信秀が尾田家の菩提寺として、現在の名古屋市中区錦2丁目あたりに創建しました。
正式名は亀岳林(きがくりん)萬松寺で、本尊は十一面観世音菩薩です。
もとは曹洞宗の寺院でしたが、平成28(2016)年に曹洞宗との包括関係を解消し、現在は単立となっています。
万松寺は戦国武将との縁が深い名刹として知られています。
天文16(1547)年に数えの6歳で織田家の人質となった徳川家康は2年余りを万松寺で過ごし、ここで織田信長と出会いました。
また天文21(1552)年、万松寺で執り行われた織田信秀の葬儀に、信長が茶筅(ちゃせん)巻きの髪に荒縄を腰に巻いた姿で現れ、位牌に抹香を投げつけた逸話は有名です(一説には「信長はうつけ者である」と敵勢に信じ込ませ、油断させるための策略だったとされます)。
慶長15(1610)年、名古屋城の築城に当たり、徳川家康の命によって現在の場所に移転します(築城の天才といわれ、石垣づくりを担当した加藤清正は、万松寺を宿舎としました)。
当時の寺域は2,309坪もの広さを誇りました。
大正元(1912)年にはその大部分が開放され、その後の大須商店街の発展へとつながります。
昭和20(1945)年の名古屋大空襲では全焼し、本堂が地下1階、地上5階の鉄骨鉄筋コンクリート造の建物として再建されたのは平成6(1944)年のことです。
現在、万松寺では午前10時から午後8時まで、からくり人形「信長」と、「白龍」の映像パフォーマンスが1時間毎に演じられています。
毎月28日の縁日には午後6時から、つきたての身代わり餅(信長は越前朝倉攻めの帰路、鉄砲の名手、杉谷善住坊に狙撃されますが、万松寺の和尚にもらった干し芋を懐に入れていたため、助かったといわれます)が無料で配られます。
