
徳川家康の四男、松平忠吉が創建
興國山大光院は慶長8(1603)年、徳川家康の四男、松平忠吉が、崇敬していた明嶺理察(みょうれいりさつ)和尚を招き、尾張国春日井郡清洲(現在の清須市)に創建した清善寺が発祥です。
山号の「興國山」には「尾張の地に国を興そう」という忠吉の願いが込められています。
忠吉が慶長12年に没すると、忠吉の法名をとって大光院と寺号を改め、さらに同15年の清洲越し(清洲から名古屋への遷府)で、現在地に移転しました。

図会に描かれた縁日の賑わい
文化5(1808)年、烏瑟沙摩明王の別殿として明王殿が建立されると、腰部の諸病の治癒に霊験があるとして、多くの女性の参拝客を集め、毎月28日の縁日の賑わいの様子は「尾張名所図会(おわりめいしょずえ)」などに描かれました。
江戸末期、大須の北野新地にあった遊郭では遊女の外出を禁じていましたが、大光院の参拝だけは認められていたそうです。
今も毎月28日は「みょうおんさん縁日」として、境内や周辺にさまざまな露店が立ち並び、夜まで賑わっています。

愛知学院の発祥地
愛知学院の前身である曹洞宗専門支校は明治9(1876)年5月、大光院に開設されました。寺院の師弟や住職が通い、修学期間は3カ年で、経典や漢書のほか、耶蘇創世記(聖書)の授業もありました。
曹洞宗専門支校は明治13年に長栄寺、同22年に万松寺に移転し、その後、同35年に曹洞宗第三中学林、大正14年に愛知中学校と改称されます。
教場として使われていた大光院の僧堂は昭和12年、赤門通りの拡張により取り払うことになり、覚王山日泰寺に移転された。
